小説『鬼族』の構想は、
『黒い林檎』を書き上げた頃にはすでにできていました。テーマの一部は、当時書いた
短編『魂の帰還』の中にすでにまとめられています。
『黒い林檎』を書き上げたのは1997年頃ですが、なかなか出版できなかったため、その次に書こうと思っていたこの『鬼族』については、このままでは構想だけで書くことはないかもしれないと思い始めていました。
事態が変わったのは、2000年の暮れです。
角川春樹事務所の若い女性編集者から、ぜひ一度出版を前提に打ち合わせの時間を作ってほしいという電話がありました。
角川春樹事務所には別ルートで『黒い林檎』や『呪禁(じゅごん)』(これは未だに出版できないまま)を持ち込んでいたのですが、彼女はそのことは知らずに、単純に編成会議で私の作品をやってみたいと提言してくれたようです。
さっそく会って話をしたところ、依頼したいのはホラー文庫の書き下ろし新作としてで、『黒い林檎』や『呪禁』だと少し長すぎる。300枚規模で書き下ろしてもらえないか、という話でした。
もちろん承知し、さっそく書き始めました。
出版業界の状況からして、ぐずぐずしていると話が流れてしまうと感じていたため、自ら締切をひと月後に設定し、2001年1月末に原稿を渡しました。
内容は気に入ってもらえ、さっそく出版後の売り出しについてまで話し合い、その時点でkizoku.orgというドメインも取りました。ところが、その後、パタッと連絡が途絶えてしまいます。確認したところ、会社の経営状態が悪化し、出版点数の大幅減を告げられたため、依頼していた作品の多くが事実上出せなくなったとのこと。
「出せないなんてことはありませんから」と何度も言われていた直後だけに、さすがにショックでした。
この時点ではまだ『黒い林檎』もお蔵入りのまま。長い間、出版が途絶えてしまっていた状態で、作家生命も終わりと思い詰めていたので、なおさらのことです。
最後のチャンスと思っていたものが消えてしまったので、『黒い林檎』と『鬼族』は、文藝ネットレーベルで自費出版という最終手段に出ました。
その後、河出書房新社から『黒い林檎』の出版が決まり、その準備中に「これが売れても売れなくても、その次も出します」というありがたい言葉をもらいました。そうは言っても、『黒い林檎』が売れなければ次はないだろうと覚悟していたのですが、編集者は約束を守ってくれました。この出版不況の中で、大変なことだったと思います。
『鬼族』は文庫書き下ろしという依頼で書いたため、当初の「シリーズ化して続けていける壮大なドラマ」という構想から外れ、無理矢理300枚に仕上げた感がありました。その条件がなくなり、本来のサイズで全面リライトを始めました。最終的には600枚を超える長編に生まれ変わりました。
なにがなんでも出版しなければ……という限界状態で書いた『黒い林檎』に比べ、本来のスタイルで、自由に書けたと思っています。商業的に成功しなければならないという条件がまっ先にあることに変わりはないのですが、鐸木能光の名前を捨てなければ本が出せないというところまで追い込まれた『黒い林檎』のときは、やはり一種異常な状況だったと言えます。実際、収入が途絶えた中、神経科に通い、抗欝剤を飲みながら書いていましたし。
『鬼族』は、自分でも楽しく読める作品に仕上がりました。
東北という舞台も好きです。岩木山は2度訪れました。最初のときは登頂しましたが、2回目は裏側(本来は表側?)から、鬼伝説を追いかけながら山麓をぐるっと回りました。鬼神社や巌鬼山神社は、近いうちにもう一度訪れたいと思っています。
小説の中に「アテルイの墓に毎夏集まる集団」というのが出てきますが、この行事にも一度参加したことがあります。
そうした東北贔屓、アンチ大和朝廷の想いが高じて、
「縄文村」も実際に作ってしまいました。
『狗族(ぐぞく)』に登場した下倉Kが、この小説で再び登場するのも(しかも今度は結構活躍?していますし)嬉しい限りです。
非常に厳しい状況の中、共に戦い、この作品を世に出す道を開いてくださった河出書房新社の尾形龍太郎さんには、本当に感謝しています。この場を借りてお礼申し上げます。
また、ノーギャラで
asahi.comのコラムに挿絵を提供してくださっている
tanukiさんには、今回カバーイラストをお願いしました。難しい注文の中、最後までつきあってもらえて助かりました。ありがとう。いつも無理ばかり言ってごめんなさい。
(2003年1月7日 鐸木能光)